当山の山号「愛宕山」とは人皇七十六代、近衛院仁平三年(一、一五三年)今よりおよそ八六〇年前の正月十一日、鎮西八郎為朝公が現在の福岡県勾金庄に築城の折り国家鎮譲の道場として建立されたと伝えられ愛宕山に祀り奥之院と称し山腹及山麓に付属の堂宇を建立し付属の尊体を祀り其の規模は極めて壮大でありましたが、慶長年間、火災にあい一山焼失の悲運にあったのです。
しかし時の太守細川忠興深くうれい僧、栄椿に命じて再興にあたらせ寺録五十石を賜り営繕の費に充てられましたが太守の国替えと共に廃録され、後小笠原公が入国するや郡中春夏二季の祈祷を常務とされました。
後、元禄二年五月、尊如、修栄の命を奉じその完工を持って、三階菱定家紋付灯籠一対、大柄杓一本(領内に於いて信施を受ける事勝手たるの証)を賜りましたが明治維新となり廃藩置県と共に寺録も廃止されたのであります。
その後昭和六十一年に神戸市に其の愛宕大権現の分身を祀り別院を建立しますが、平成七年には兵庫県南部地方を襲いました淡路、阪神大震災の直撃を受け本堂、庫裡共に倒壊し、また六年間に渡り、現在の地に堂宇、境内を建立し観音堂の内陣には大震災による犠牲者を祀る位牌が納められ一切の精霊の追福菩提を祈りつつ現在に至るのであります。 |